2011年2月25日金曜日

雀と人と


神崎川にて
雀の数が減少していると

いう報道があった。

まさかと思い調べてみると

5~6年前に環境庁から

報告されている様である。

我々の小さい頃に雀のお宿ともいうべき

ねぐらの樹が有り夕方になると

沢山の雀が止まり賑やかに囀りうるさかった

事を記憶している、

今はそういった光景を見ることが少なくなっている様に思う。

周りの都会化が進んでいるからかもそれないが、

 しかし散歩していても数は減っている様には感じられないし、

群れの中の数は少ないが小集団化しているとしか思っていなかった。
 
そんな思いで散歩しているとついつい目とレンズもスズメに向いている。

久々に雀のアップが撮れたのでこの散歩道に載せようと考えていたが

文章が纏まらず1ヶ月以上放置していたところ、

1/16の天声人語にその答えらしきものが載っていた。

 親鳥の雛に対する天敵によって隠れ方を指示する愛情に比べて

人間の親は・・という趣旨で述べられていたが雀の数という観点で、

以下その文を引用する。
 
 【前略】 【▼そのスズメに一人っ子が増えているという。

こちらは岩手医科大などの研究だ。

去年の繁殖期、全国の愛好家に雛の数を調べてもらうと

、商業地で平均1.4羽、住宅地が1.8羽、農村部でも2羽だった。

4~5羽も珍しくない鳥だから少子化である

▼都会ほど瓦ぶきの家が減り、

広い巣を作れる場所が減ったせいらしい。

国内のスズメは20年で半減したともいわれる。

この鳥の親も懸命に鳴き分けて、1羽2羽を守っているに違いない。】 



野鳥の世界でも少子化が進んでいるようだ。

 しかし先日の散歩のときに久しぶりに30~40羽の大集団の雀を見た、

何かほっとしてしばらく見とれていた。

天声人語氏は最後にこう述べられている 

【小さきものたちの大きな愛を知るにつけ、

保護者の顔をしたカラスやヘビに育てられる子を思う。

しつけに名を借りた虐待を前に、

被害児は泣き分けるすべを知らない。

せめて隣家から漏れ来る「子苦子苦(シクシク)」の声を聞き分けたい。】


しかし隣人との距離をどの様にすれば良いのか判らない人が多すぎる様に思う、

私もその一人かもしれない、

マンション住まいの身としては特にそういう感じがしている。 

自分の部屋の表札は勿論郵便受けにも名前が無い、

郵便物は部屋番号だけで届く、

したがって隣の人の名前すら判らない。 

その距離を縮めるのは挨拶と思い心掛けてはいるが、

挨拶しても返ってこない事がしばしばで

それ以上は拒否されている様でもう一歩が踏み出せない。

 勿論無駄なトラブルを警戒してのことだが。

小さな親切大きな迷惑にならない様に距離を保つのは難しい。

先日こんな新聞の投稿を見つけた

≪いつも同じような時刻に泣く娘の声で虐待を疑った

隣人からの通報で警察が・・・

最初は腹が立ったが冷静になって考えてみると、

自分一人で育てているのではなく

隣人にも子供を見守って頂いている事が有り難くなって来た≫

と・・・このお母さんのような心境の親が増えることを願う。





2011年2月15日火曜日

霧氷 積雪55cm 気温-3℃

金剛山の霧氷

2月13日歩こう会の例会で、

9名の爺さん達が雪の金剛山に登った。

最寄の駅でのバス待ちに

長蛇の列2台待ちでやっと乗り込んだ

臨時のバスがコースを間違いUターン。

登山口から千早城跡を経て頂上まで約2時間半、

雪中の広場での昼食、

弁当の他にビール、

熱燗を持参した者もいて「ワイワイ、ガヤガヤ」

楽しみながら食べ終えて展望台へ、

ライブカメラに向かって携帯で話しておられる方がいたり、

手のひらに餌を乗せヤマガラが啄みに来る姿を写真に撮る人がおられたので

真似をして楽しみ、遠く関空が望める所に見事な霧氷、

ブナ林、スノーパウダーと楽しい1日だった。

何回となく冬の金剛山に来ているが、

今回ほどの見応えのある霧氷は初めてだった。
 
また帰りのバスを降りてからの反省会と称する会も楽しかった。





2011年2月5日土曜日

中仙道

民宿「ほていや」のご主人
昨年10月に仲間6人で中山道の妻籠宿から馬籠宿を歩いた。

一日目は十二兼駅から柿其渓谷を歩いて

民宿に泊まり二日目が南木曽から妻籠、馬籠と歩き、

温泉で疲れを癒し満足した一泊二日だった。

このコースは以前穂高からの帰りの列車で隣り合わせになった人に、

この街道の峠越えを進められていたので興味を持っていたコースだった。

民宿の名前が「ほていや」と聞き

七福神の「布袋」の字を想定していたが入り口には

「保定」の表札が掛かっていた。

建物は築150年以上でこの辺りの集落では最も古い建物だそうだ、

囲炉裏が切って有り子供さんがお客の時の対策に中はモルタルで固めてあった。

目印は大きな枝垂桜と入口前に置かれた大きな布袋さん像。

囲炉裏を取り囲みながらの

ご主人との話しで表の桜はご主人が若い頃に植えられたそうで、

撮られた写真を見せて頂きその見事さに桜の頃にまたと考えている。

夕食時呑んだお酒が美味しかったので銘柄を聞くと

「七笑い」 という地酒、

帰阪して先輩にお聞きするとご存知だった、

後日先輩が大阪でも飲める居酒屋が在ると

エッセイに書かれておられ機会があればとも、

そのときは声を掛けて頂ければと思っている次第です。
 
夕食後に氏子祭りの餅撒きの餅を土産にと数個づつ頂き後日美味しくいただいた。 

そして茶の間にはエージシュートを達成の賞状が飾られていた72歳の時だそうで、

田圃の切り株をたたきながら腕を磨いたそうな。



42番目の妻籠宿
OB回の総会時に別の先輩から

中仙道の基点と終点は?

と聞かれ東京から京都まで?

と答えたが自信が無かったので調べると・・・・。


「中仙道六十九次は江戸時代に栄えた

五街道の一つ中山道に設けられた、

69を数える宿場の総称」

「江戸・日本橋と・三条大橋の間を結ぶ主要街道

2路のうちの、山地側の1路である。 

もう1路である東海道とは、江戸側は同じ日本橋から発するが、

山手と海沿いに分かれて西進し、

近江国に入って草津宿で合流。

そこからは京までの区間を共有する。 

また、江戸・日本橋から発する甲州街道とは、

その終点である信濃国の下諏訪宿で合流する。」

 と解説していた。

別の解説によると67次とも。

また歌川広重によって「木曾街道六十九次」

として描かれていると解説しているが私は知らなかった。

今回の歩きの中で、

何箇所かにあった道標に

「中仙道」と「中山道」の二つが混在していた、

当時はどの字を使っていたかは定かではないが私は

「中仙道」の方が情緒が感じられ趣が有るように感じる。
 
交通手段が徒歩以外は

「馬」「籠」しかない時代の街道を歩き終わっての感想は、

「楽しかった」だけでは言い表せない昔日の旅人に思いを馳せた一泊二日の旅だった。

そして計画して頂いた歩こう会の事務局と一緒に歩いた仲間に感謝。





交通事情

交通事情 先日所用で市内路線バスを利用した。 すこし早めにバス停まで行き時刻を確認してベンチに座った。 ガラ携を操作しながら、○○番の乗り場は? と高齢の男性に尋ねられた。 教えた方向に男性が歩いて行ったが、 間違っていることに気...