あまりお礼の返事も出さないが、
何時も有り難く拝読している。
共感できるところ
そうでも無いところもあるが、
先般頂いた「沿線酒場」と「空蝉が飛んだ」は先輩の
「人となり」が良く出ていると感じながら読まして頂いた。
「沿線酒場」は鉄道会社が発刊している冊子で、
駅近の居酒屋を紹介した物だそうで、
先輩は中の記事より巻頭&巻末の著者の言葉への反応が有りそこが又面白い、
というより著者への共感とも言うべきかも知れないが私には無い感性がある。
「雑感・858 沿線酒場」の文末で
「鉄道と駅と酒場が何故、酒飲みの心をくすぐるのか。
日々、家庭と職場を往復する者が特に帰路、
自分をスィッチ出来る場所のような気がする。」・・・と結んでおられる。
日々のストレスを家庭に持ち込まぬ様にスイッチを切換えておられたのでしょう。
また酒屋さんの営むいわゆる立ち飲み屋さんにもスイッチを持っておられ、
私も何回かご一緒させて頂いた事が有る。
先輩の時間はゆったり流れている様で、
昭和の時間をお持ちの雰囲気が出ている。
出かけても来た電車に乗れればよしという「慌てず騒がず」と言ったところかも。
「雑感・863 空蝉が飛んだ」では・・・
≪昨年8月頃から家のブロック塀にしがみついていた蝉の抜け殻が旅に出た≫
・≪人間は自分の時期を知らなければならないとも思う。≫
≪あの空蝉も時期を知り遠くへ飛んでいったに違いない。≫・・・・と表現されておられる。
あの空蝉とは・・・「雑感・845 蝉の抜け殻」で
≪玄関の扉を開けるとブロック塀の隅にくっつく抜け殻が小さく見える。
近づいてながめると細い足でしっかり塀にしがみついているように見え、
その懸命さに微笑んでしまうときもある。
強い雨風の時などは落ちていないか、飛ばされていないかなど心配になる。
生き物ではないから心配する必要などないのに。
・今月いっぱいもつと半年無事だったことになる。小さな観察だけれど、
人生に置き換えながらいろいろ考えさせられる。
それは残る時間、
つまり余生のあゆみ方のことでもある。もっとしがみついていておくれ。≫・・・
と表現されていたあの空蝉の事である。
その空蝉に武士(もののふ)の哀れさを感じておれるようです。
一方、私も酒は好きだが一人で立ち飲みの店には行かないというより、
行けないのである仲間がいると入れるが・・・。
(一人だと間が持たないのだ)
だが、この立ち飲み屋の雰囲気は好きである。
この立ち飲み屋で思い出したことがある、
中学生の頃近所の酒屋さんでアルバイトをしていた時の思い出、
この店も立ち飲みがあり、店の人が忙しい時は酒を注ぐ事もしていた。
ある時酒を注いで渡すと「少ない・こぼれるまで注いで」と云われた事がある。
その時は「意地汚いな~」と思っていたが、
自分が酒飲みに成ってこの酒飲みの性がすごく理解できる。
コップの下の皿はそのためのものだと後で教えて貰った。
数年前に、
愛読されていた「あまから手帳」21冊を譲っていただき時々開いて愉しんでいる。
この本は、整理される際に捨てるのは忍びない・・・誰かにと考え小生の顔が浮かんだと・・・
どうも私に自分と同じ様な雰囲気を感じられたのかなと、勝手に思っている。
空蝉では・・・私自身このブログ(今年8月25日「空蝉」)で
≪樹にしがみついている蝉の抜け殻を見掛けて夏も終わり
数ヶ月経っているのにまだしがみついている強かさを感じた。
これでないと七年間の地中での生活は出来ないだろう。≫
・・・と表現した。
同じ空蝉を観て、先輩は、武士の哀れさを、私は、武士の強かさを・・・・。
そして、空蝉に関してお礼のメールに私は
「この空蝉は、後輩に席を譲ったのではないでしょうか」と
返信は「後輩に席を譲るとは、いい表現ですね」・・・・と返ってきた。
これが、お互いの感性なのでしょうか。
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